2007年10月18日木曜日

九牛なみ●『ワタクシと私』

海と鏡と風鈴
白い障子紙がふたつの世界の境目。向こう側には、果てしない夜と海が広がる。そしてこちら側には、しんと静まり返った小さな空間がある。

              夜は海が近くまで来る白障子

海の音が高まると、白い障子もそれに合わせてかすかに震える。こちら側で海の音に聞き入るのは「ワタクシ」だろうか、それとも「私」か。
海はいろいろなものをはらんでいる。過ぎ去った日々や、近しい人びとの死や、さまざまな情念や哀しみ……。
そういえば、鏡もふたつの世界の境をなす。向こうは迷宮だ。鏡の前にひとり座っていると、ふと奇妙な感覚におそわれることがある。鏡の向こうがふいにずれる。時間も空間も微妙にゆがむ。そしてそこに映しだされるのは、はたして「私」なのか、それとも「ワタクシ」なのか。

              冴ゆる夜の奥行深くなる鏡

                     ***

白い障子の向こうから押し寄せる海に、投網が打たれる。やがてその海からあがってくるのは切なさだ。むろんただの切なさではない。いや、ただの切なさかもしれないが、こちらはそれにひるむことがない。わが夏はもはや永遠に巡ってくることはなくても。

              夏は来ぬ波を忘れし貝釦

だが、白い波にもはや洗われることがなくても、「貝釦」となった貝には、まだ海も、夏も、そしてあのきらめきもひっそりと残っているのだ。それを知っているのは誰か。「ワタクシ」か「私」か。
夜が訪れると、切なさと寂しさが少しずつこの地上に降り積もる。むろん飛び立てずにうなだれる残り鴨の上にも。だが、その残り鴨にもひそかな強さがある。大げさにいえば、宇宙的な孤独感に耐える気構えがある。固く、どっしりと丸めたその姿を見ればわかるではないか。

              夜は石の重さとなりぬ残り鴨

                     ***

鏡の向こうから近しい死者たちも立ちあらわれる。そんなとき、むろん哀しみや懐かしさがこみあげる。でも死者たちの姿をほんの一瞬だけ垣間見られればよい。一瞬が永遠につながっているからだ。その仕掛けに、「ワタクシ」と「私」はすでに熟練しているのだ。

              角曲がる母の日傘を見送れり

小さな釘ひとつでもじゅうぶんだ。そこに風鈴を吊せば、澄んだ音とともによみがえるものがある。

              母打ちし釘に風鈴吊しけり
 
でも、たぶんその母親に語りかける言葉こそ、この句集の何かを突き抜けるのだろう。

              お母さま秋草活けて帰ります
 
そのときは、あんがい「ワタクシ」が「私」を抜けるときか――

              春の夢私を抜けるワタクシが