聖書学の専門家の手になる本である。題材は聖書のなかのイエス・キリストと「男はつらいよ」シリーズのなかの車寅次郎である。イエスと寅さん。著者は「果たしてイエスは本当に寅さんに似ているのか? この途方もない問いかけに」挑むのである。著者には「政治も経済も宗教も、生活のすべてが謹厳なユダヤ教社会にあって、もしイエスが笑いもしないまじめくだった男だったら、決して女性も子供も近寄って来なかったであろう」という思いがある。その説を裏付けるために聖書学の新しい知見を駆使する一方で、シリーズ四十八作を「自分の目で何度も見直し、聞き直し」たのだという。
各章で「男はつらいよ」の場面がいきいきとした文章と実際の台本で再現され、寅さんの「人間の色気」や「常識をはみ出した者としてのフーテン性」あるいは「つらさ」や「ユーモア」について論じられる。そしてイエスについてもその観点から聖書の中での言動が検証される。
その際、ほんとうにそれがイエスの発言なのか、それともイエスが語ったものとして誰かが加えたものなのか問題になる。だが驚くべきことに聖書学の進展により、いまでは「かなり正確にイエスが実際に語った、イエスの生【なま】の言葉を割り出す事」が可能なのだそうだ。
著者はさらに用心深く、イエスが実際に発した言葉であれ、それがどのような状況で、どのような思いを込めて語られたかを見極めることが肝要だという。「想像力をたくましくして吟味する必要がある」のだと。
その手本のひとつは、締めくくりに引用されるイエスと弟子ペトロとの対話だろう。イエスが日本語訳で「私を愛するか?」と三度尋ね、ペトロはそのたびに「あなたを愛します」と答える。だけど実際はそうした単調なやりとりではなかったようだ。著者は原語のギリシア語から訳してみせるが、確かにその口調にはユーモアと優しさがあり、聖書で一度も笑わないイエスとは異なった風貌のイエスがそこにいるのだ。
「北海道新聞」
2012-09-16
